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江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の家系図をピックアップ!
征夷大将軍の父・徳川家康など、江戸幕府を支えた豪華な面々が家系図に名を連ねている徳川秀忠。
血筋を調べていくと、意外な真実が浮かび上がってきたので、早速徳川秀忠の家系図をチェックしていきましょう!
目次
徳川秀忠の家系図!
こちらが徳川秀忠の家系図です。
正室・お江の血脈をたどっていくと、豊臣秀吉や浅井長政といった戦国時代の名武将の名前がありました。
徳川一族だけでなく、他の名家とも深いつながりがある徳川秀忠の家族構成はどんな感じなのでしょう?
徳川秀忠の家族構成について
- 父 :徳川家康
- 母 :西郷局
- 本人:徳川秀忠
- 正室:お江
- 長男:徳川家光
- 次男:徳川忠長
- 五女:和子(後水尾天皇の中宮)
- 側室:お静
- 側室の子供:保科正之
こちらが徳川秀忠の家族構成になります。
長男・徳川家光は正室・お江との間に授かった子供で、後の江戸幕府3代将軍になりましたよね。
さらに、側室・お静との子供の存在も判明しているので、徳川秀忠の家族構成を詳しく掘り下げていきましょう!
父:徳川家康
戦乱の世を平定し、江戸幕府を開いた父・徳川家康。
征夷大将軍となった2年後(1605年)に息子・徳川秀忠に将軍の座を譲ったものの、隠居してからも江戸幕府の実権を握り続けました。
徳川秀忠を後継に指名した背景を探っていくと、次期将軍の座を争う戦いが続いており、スムーズに権力を継承することを最優先に考えていたようです。
母:西郷局
西郷義勝と死別した後、徳川家康の側室となり、徳川秀忠を授かった西郷局(さいごうのつぼね)。
20名程度の側室がいた徳川家康でしたが、絶世の美女だった西郷局のことが時にお気に入りだったそうです。
しかし、西郷局は徳川家康が征夷大将軍になる直前の1589年に28歳の若さで他界しました。
本人:徳川秀忠について
- 1579年5月2日生まれの静岡県浜松市出身
- 徳川家康の三男
- 次兄(徳川秀康)が豊臣家の養子となり、徳川秀忠が後継者に
- 17歳でお江(浅井長政の娘)と結婚
- 22歳の時に関ヶ原の戦いで上田城攻めに手間取り、失態を犯す
- 27歳(1605年)に父から将軍の座を継承される
- 37歳の時に大坂夏の陣で活躍し、武家諸法度などを制定
- 1632年に54歳で他界(晩年は胸痛の闘病をしていた)
徳川家以外の武家・公家を区別する「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」を制定した2代将軍・徳川秀忠。
関ヶ原の戦いにて、上田城攻めの陣頭指揮を任された徳川秀忠でしたが、攻略に時間を要してしまい、父・徳川家康に厳しく怒られたこともあったそうです。
ただ、制限的な海外貿易の解禁で他の大名の勢力を弱らされるなど、政治的な駆け引きが上手だったこともあり、父・徳川家康から2代将軍の座を譲り受けることになりました。
正室:お江
浅井長政の三女で、豊臣秀吉の策略に翻弄され、波乱万丈な人生を過ごした正室・お江。
2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では上野樹里さんがお江の生涯を演じ、話題を集めましたよね。
徳川秀忠が将軍になってからは正室として大きな権力を握り、江戸幕府の中でも強烈な存在感を放ちました。
正室(お江)との子供について
徳川秀忠と正室・お江との間には7人の子供がいます。
たくさんの養女を迎え入れるなど、徳川一族を衰退させないために勢力を拡大させた徳川秀忠。
今回は正室・お江との間に授かった子供の中でとくに有名な「徳川家光」「徳川忠長」「和子」の3名をピックアップします。
長男:徳川家光(三代将軍)
20歳(1623年)の若さで江戸幕府3代将軍の座に就いた長男・徳川家光。
日本中の大名を江戸に大挙させる「参勤交代」を1年ごとに実施したほか、島原の乱の後に鎖国政策を強化するなど、国内外に大きな影響を及ぼす施策を次々に打ち出しました。
父・徳川秀忠よりも刺激的な制度を作り上げたこともあり、江戸幕府の将軍の中でも一際目立つ存在になっていますよね。
次男:徳川忠長
エリート街道を突き進んだ兄・徳川家光との権力争いに敗れ、28歳の若さで他界した次男・徳川忠長。
徳川家光の命令で高崎に幽閉されるなど、徳川家の子供とは思えないくらい不遇な人生を過ごしたのです。
野心的な性格の持ち主だったそうで、徳川家光は徳川秀忠が他界した後、弟・徳川忠長への警戒心を強めました。
五女:和子(後水尾天皇の中宮)
108代天皇・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の元に嫁入りした五女・和子。
皇族に嫁いだ理由は「父・徳川秀忠の策略」で、天皇家とのパイプを強固にしたい!という徳川秀忠の思惑が働き、五女・和子は後水尾天皇の元に嫁入りしたのです。
政略結婚の様相が強かったものの、後水尾天皇は五女・和子のことをかなり気に入っていて、合計で7人の子供を授かりました。
兄・徳川家光が将軍になってからも幕府と天皇家の関係は良好だったようで、五女・和子も高い政治力を誇っていたのは間違いないでしょう。
側室:お静
徳川秀忠の乳母に仕える立場だったお静が”隠れた側室”になりました。
正室・お江は側室の存在を頑なに拒否していたものの、周囲の協力を得る形で子供(保科正之)を授かっています。
側室の存在が認められていないのに、周りから厚い信頼を寄せられていたわけですから、お静は周囲の人々に好かれやすい性格だったのかもしれませんね。
側室(お静)との子供:保科正之
徳川秀忠と側室・お静との子供で、4代将軍・徳川家綱の後見役を務めていた保科正之。
武田信玄の娘・見性院(けんしょういん)が育ての親で、側室・お静と対立していた正室・お江に子供の知られないため、隠し子のような形で育てられたそうです。
3代将軍・徳川家光とは”異母兄弟”の間柄でしたが、会津藩主として強烈な存在感を放ち、徳川一族の繁栄に尽力しました。