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徳川家治は、江戸幕府第10代将軍として知られ、彼の家系図は日本史における重要な一ページを刻んでいます。
祖父の徳川吉宗から多くの影響を受け、家治の家族関係や後継者問題が江戸時代の政治に大きな影響を与えました。
今回は、徳川家治の家系図とその背景に焦点を当て、将軍家の血筋や家族の動向を探ります。
目次
10代将軍徳川家治の家系図!
江戸時代の重要な将軍、徳川家治は第10代将軍として、歴史に名を刻んでいます。
その家系図と背景には、時代の波や政治の駆け引きが色濃く反映されています。
ということで、10代将軍徳川家治の家系と関係者について、わかりやすく解説します。
祖父:8代将軍徳川吉宗
徳川吉宗(第8代将軍)は、江戸幕府の改革者であり、徳川家治(第10代将軍)の祖父です。
徳川吉宗は長男・徳川家重を後継者に選びましたが、次男の徳川宗武の方が賢いと評され、後継を巡る議論もありました。
最終的に、徳川吉宗は家重に将軍職を継がせたものの、徳川家治には大きな期待をかけて育てました。
徳川家治は幼少期から優れた才能を見せ、徳川吉宗や家臣たちにとって希望の光とされました。
祖母:側室・深徳院
深徳院(しんとくいん、1688年 – 1713年)は、徳川吉宗(江戸幕府第8代将軍)の側室であり、徳川家重(第9代将軍)の祖母です。
紀州藩の第5代藩主である吉宗と深徳院は、紀州藩主時代からの関係で、彼女は吉宗の愛人として仕えていました。彼女の本名は「須磨(すま)」で、出身は紀州藩士の家系です。
深徳院は1711年に家重を出産し、その後も懐妊しましたが、1713年に難産で命を落としました。
享年26歳。彼女の墓は池上本門寺にあり、深徳院はその後「妙順日喜大姉」の戒名を授けられました。
父:9代将軍徳川家重
徳川家重(とくがわいえしげ)は、江戸幕府の第9代将軍であり、徳川家治(第10代将軍)の父です。
徳川家重は、病弱であり、言語障害や身体的な不調を抱えていたため、将軍としての職務を全うすることが難しいとされました。
特に言葉が不明瞭で、話す内容を理解できるのは大岡忠光(側用人)ただ一人だったと言われています。
徳川家重はその弱い体調から、移動の際に頻繁に休憩所として便所を設置するなどしていましたが、そのため民間では「小便公方」と呼ばれ、あまり良い評判は得られませんでした。
また、徳川家重は酒と女性に溺れがちな一面もありましたが、次世代のことも考え、将軍職を将来的に徳川家治に託す決断を下しました。
徳川家治に対する期待は大きかったようです。
母:お幸の方
至心院(ししんいん)は、徳川家重(江戸幕府第9代将軍)の側室であり、徳川家治(第10代将軍)の生母です。
通称はお幸の方(おこうのかた)で、俗名は幸子(こう)でした。父は梅渓通条で、出自は武家にあたります。
至心院は、享保16年(1731年)に増子女王(後の正室)と共に、京都から江戸に輿入れし、その後家重の側室となりました。
徳川家重の正室であった増子が享保18年(1733年)に死去した後、徳川家重は至心院を寵愛し、彼女との間に嫡男の竹千代(後の徳川家治)をもうけました。
至心院は、家重の寵愛を受け、家重の後を継ぐべき重要な子供を生んだことで、その影響力も大きかったと考えられています。
また、彼女は「お部屋様」とも呼ばれ、家族内でも特別な位置にあったとされています。
本人:10代将軍徳川家治
徳川家治(とくがわいえはる)は、江戸幕府の第10代将軍で、1737年(元文2年)に徳川家重(第9代将軍)の嫡男として江戸城西の丸で生まれました。
幼名は竹千代(たけちよ)で、彼の誕生は幕府の未来にとって重要な出来事でした。
父・徳川家重は生まれつき言語不明瞭であり、治世においてはその影響を受けて十分な教育を受けられなかったとされています。
このため、徳川吉宗(家治の祖父であり、第8代将軍)は家重が将軍職を継ぐために必要な知識や能力を十分に養うことができなかったと感じていました。
そのため、徳川吉宗は孫の家治に大きな期待をかけ、さまざまな教育を施しました。
徳川家治は幼少期から非常に聡明で、徳川吉宗の教えをすぐに理解し、修得しました。
徳川吉宗は生前、自らが家治に対して深い愛情を注ぎ、その成長を見守り続けました。
このような背景が、家治が将軍として強い指導力を発揮するための土台となり、後に江戸幕府を支える重要な人物となりました。
正室:五十宮倫子
五十宮倫子(いそのみやともこ)は、徳川家治の正室で、皇族閑院宮直仁親王の娘です。
徳川家治との夫婦仲は非常に良好であり、徳川家治は頻繁に倫子の元を訪れるほどでした。
このことが原因で、倫子に仕えていた大奥の御年寄たちが反発し、物議を醸すこともありました。
倫子との間には2人の娘が生まれましたが、いずれも早逝してしまいます。
家臣たちは、徳川家治に対し、将来の世継ぎの問題について心配の声を上げましたが、徳川家治の政治や私生活への影響は大きかったと言われています。
側室:お知保の方
お知保の方は俗名であり、蓮光院(れんこういん)と呼ばれています。江戸幕府第10代将軍徳川家治の側室で、後の徳川家基(第11代将軍)の生母です。
元文2年(1737年)11月15日、津田宇右衛門信成の娘として生まれ、養父は伊奈忠宥でした。
蓮光院は寛延2年(1749年)に、徳川家重の御次として仕官し、最初は「お蔦」、後に「お知保」と名乗りました。
その後、家重が亡くなった後、宝暦11年(1761年)に江戸城本丸大奥に移り、家治に仕える御中臈となります。
長男:家基(幻の第11代将軍)
徳川家基(とくがわいえもと)は、江戸幕府第10代将軍徳川家治と側室「お知保」の間に生まれました。
生まれて間もなく、生母と離れ、徳川家治の正室である五十宮倫子の養子として育てられました。
五十宮倫子の死後、再び実母と一緒に過ごすことになりました。
家基は、武芸や学問に優れ、将来の将軍としての素質を持っていたため、周囲から大きな期待を寄せられていました。
しかし、18歳のとき、鷹狩りの最中に突然の腹痛に襲われ、医師による治療も効かず、数日後に死去しました。一説には鷹狩りのときに落馬して、それが原因ともいわれているそうですね。
いずれにしても、徳川家基の死去により、次期将軍候補がいなくなり、将軍家は一橋徳川家から徳川家斉(とくがわいえなり)を迎えることになりました。
側室:お品の方(養蓮院)
養蓮院(ようれんいん)は、江戸時代の女性で、江戸幕府第10代将軍徳川家治の側室です。
俗名は品(しな)。父は藤井兼矩で、藤井家という家系に生まれました。
彼女は寛延2年(1749年)に、家治の正室である五十宮倫子が江戸に下向する際、倫子に従って江戸へ来ました。
当初は倫子に付き従い、浜御殿に入りますが、後に宝暦4年(1754年)に倫子が江戸城西の丸に移ると、お品も西の丸大奥に入り、御簾中付きの御中臈となりました。
その後、養蓮院は家治の側室として、家治との間に子供をもうけ、幕府内で一定の影響力を持つ存在となったとされています。
養子:11代将軍徳川家斉
徳川家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府第11代将軍で、徳川家治の養子として迎えられました。
徳川家治の実子、徳川家基の急死により、徳川家斉は一橋徳川家から養子に入り、15歳で将軍職に就任。
その後、50年にわたり将軍として治世を行いました。徳川家斉は、歴代将軍の中で最も多く、53人の子をもうけ、半数以上が成人しています。
しかし、家斉の治世後期には、大奥の人員が増加し、財政に負担をかけることになりました。