記事内で紹介する商品を購入することで、当サイトに売り上げの一部が還元されることがあります。
蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)さんの家系図を徹底深掘り!
”江戸のメディア王”の異名を持ち、NHK大河ドラマ「べらぼう」の主人公モデルにもなった蔦屋重三郎さんですが、家系図を遡るとTSUTAYAの元祖だったことが判明しました。
TSUTAYA創業者・増田宗昭さんとも親戚?と噂されている蔦屋重三郎さんの家系図をチェックしていきましょう!
目次
蔦屋重三郎の家系図!
こちらが蔦屋重三郎さんの家系図になります。
蔦屋重三郎さんの両親は離婚していて、喜多川家の養子になったことが分かりました。
江戸時代は養子に行くことが珍しくなかったとはいえ、両親の離婚を経験した蔦屋重三郎さんが大きな苦労をしていたのは間違いないでしょうね。
蔦屋重三郎の家族構成について
- 父 :丸山重助
- 母 :廣瀬津与
- 義父:喜多川氏
- 本人:蔦屋重三郎
- 妻 :一般女性
こちらが蔦屋重三郎さんの家族構成です。
義父・喜多川氏との関係はもちろん、蔦屋重三郎さんの妻や子供に関する情報も深掘りしていきますので、どうぞご覧ください!
父:丸山重助
尾張国(現:愛知県西部)で生まれ育ち、江戸の吉原で働いていた父・丸山重助さん。
職業不詳となっているものの、吉原の地域に根ざした仕事(遊郭)だった可能性が高くなっています。
名前の「重」を息子(蔦屋重三郎)に引き継がせており、子供への愛情も人一倍だったかと思いますが、妻・廣瀬津与さんと離婚しました。
また、尾張藩の「藩士名寄 明治初年写」に”丸山氏”が登場するため、父・丸山重助さんは仕事で大儲けするために江戸に出てきた可能性も十分あると思います。
一方、蔦屋重三郎さんが7歳の時に離婚したものの、日本橋通油町で両親を引き取り、親子水入らずの時を過ごしたことも分かりました。
しかし、母が亡くなった時は碑文(石碑に文字を刻むこと)を残しているのに、父・丸山重助さんの石碑には何の文字も刻まれていないことから、蔦屋重三郎さんは父への思いはそこまで強くなかったのかもしれません。
母:廣瀬津与
蔦屋重三郎さんの母・廣瀬津与さんは江戸生まれということぐらいしかプロフィールが分かっていません。
ただ、遊郭で父・丸山重助さんが働いていた可能性が高い点を踏まえると、母・廣瀬津与さんは吉原の遊女だったかもしれませんね。
太田南畝さんに刻んでもらった亡き母・廣瀬津与さんの碑文には、強い意志の持ち主だったことや中途半端が大嫌いだったことが記されていたそうです。
江戸のメディア王として絶対的な存在になった蔦屋重三郎さんのルーツは逆境でもめげない母・廣瀬津与さんだったのではないでしょうか。
義父:喜多川氏
7歳の若さで両親の離婚を経験した蔦屋重三郎さんが引き取られたのが喜多川氏でした。
「蔦屋(つたや)」という茶屋を吉原で経営している一族で、蔦屋重三郎さんも「蔦屋」の苗字を名乗るようになったのかもしれません。
養子になってから16年後の1773年、蔦屋重三郎さんは吉原に自身の書店を構え、経営の世界に飛び出すのでした。
本人:蔦屋重三郎のプロフィール
- 1750年2月13日生まれの江戸出身
- 本名は「喜多川柯理(きたがわ・からまる)」
- 23歳の時に吉原大門の前で書店を開く
- 朋誠堂喜三二の黄表紙を出版したのが大ヒットし、日本橋へ店舗を出店
- 寛政の改革で処罰対象となり、財産を没収される
- 東洲斎写楽の浮世絵出版で息を吹き返し、江戸のメディア王に君臨
- 1797年5月31日に脚気で他界、享年47
江戸に娯楽を浸透させ、現代のメディアのルーツを築いた蔦屋重三郎さん。
浮世絵の出版をメインの仕事にしていましたが、プロデューサーの一面もあり、喜多川歌麿や東洲斎写楽をブレイクさせた張本人でもあります。
2025年1月スタートの大河ドラマ「べらぼう」ではイケメン俳優の横浜流星さんが蔦屋重三郎役に挑戦します。
波乱に満ちた人生を過ごした蔦屋重三郎さんの生き様をどのように演じてくれるのでしょうか。とても楽しみですね。
続いては、蔦屋重三郎さんの傑作ともいえる「吉原細見」が何なのかを深掘りしていきましょう!
「吉原細見」とは?
蔦屋重三郎さんの名を江戸中に広めるきっかけとなった「吉原細見」は遊郭”吉原”の手引書となっています。
広々とした吉原にどんなお店があるのか分からない…という利用客が多い点に着目した蔦屋重三郎さん。
店舗の場所や名称はもちろん、それぞれのお店でどんな女性が働いているのかを隈なくチェックして、冊子で利用者に販売していました。
当時の冊子は横本が大半だったのですが、蔦屋重三郎さんは見やすさを重視して縦本へと形式変更させ、冊子文化に革命を起こしたのです。
特徴①:詳細な情報が正確に掲載されている
蔦屋重三郎さんは吉原で生まれ育った人物で、地の利をフルに活かす形で取材活動を展開。
縄張り意識が強く、他の地域の人を許容しない雰囲気が漂っていた中、蔦屋重三郎さんは人脈の広さで遊郭の正確な情報を仕入れることに成功したのです。
仲良くなった遊女からマル秘情報をゲットするなど、独自路線で取材を進めた「吉原細見」は他のガイドブックでは得られない情報がたくさん掲載されており、大ヒットしました。
特徴②:安価で見やすい!
蔦屋重三郎さんは幅広い客層に「吉原細見」を買ってもらうため、丁数を半減させて安価で提供することにしました。
これまでの手引書は派手な表紙を採用し、文字数も膨大という特徴があったのですが、読みづらい面がネックとなり、売り上げ不振に陥ります。
一方、蔦屋重三郎さんは文字数を極端に減らして、遊郭のレベルや遊女のランクを分かりやすく表記することで丁数の半減に成功し、安価で「吉原細見」を売ることができました。
重三郎の店「耕書堂」のその後について
「吉原細見」を販売していた書店「耕書堂」は明治初期まで継続していたそうです。
蔦屋重三郎さんが他界した後は番頭が店主を引き継いでいて、5代目まで続いたことが分かっているので、「耕書堂」は100年近く経営を維持していたのは間違いないでしょう。
倒幕や明治維新など、激動の時代を迎えた中で経営を続けることができた「耕書堂」は老舗中の老舗といえますよね。
妻:一般の方
映画「HOKUSAI」では、蔦屋重三郎さんの妻として「トヨ」という女性が登場しますよね。
一方、ノンフィクション作家・増田晶文さんの「稀代の本屋 蔦屋重三郎」では「妻は本屋の町娘」と紹介されています。
プライベートが謎に包まれている蔦屋重三郎さんなので、どんな女性が妻なのかは不明のまま…という状況の方がしっくりくるかもしれませんね。
子供について
蔦屋重三郎さんと妻との間に子供がいたのかどうかは分かっていません。
文献など詳細な情報が一切残っていない状況ですし、子孫らしき人物も見当たりませんでした。
謎めいた人物として有名な蔦屋重三郎さんですが、子供はいなかったという可能性も十分あると思います。
蔦屋重三郎とTUTAYA創業者・増田宗昭との関係について!
- 血縁関係はなく、親戚でもない
- 増田宗昭の祖父が作った店の屋号が「蔦屋」だった
- 祖父と蔦屋重三郎にも血縁関係はない
- 祖父が蔦屋重三郎に憧れて「蔦屋」を屋号に採用
- 祖父のエピソードに感心した増田宗昭が「TSUTAYA」の名称を使った
蔦屋重三郎さんと増田宗昭さんは親戚関係ではありません。
ただ、増田宗昭さんが1983年に創業した「蔦屋書店(のちのTSUTAYA)」は蔦屋重三郎さんの苗字「蔦屋」がルーツだったことが分かりました。
置屋(芸者のプロデュース業)を営んでいた増田宗昭さんの祖父は蔦屋重三郎さんに強い憧れがあったそうで、自分の店の屋号を「蔦屋」にしたようです。
祖父のエピソードに興味を抱いた増田宗昭さんの発案で「蔦屋書店(TSUTAYA)」を生み出し、超一流企業へと成長させました。
若い頃から並々ならぬ決意で事業に取り組み、業界に革命を起こした点は蔦屋重三郎さんと増田宗昭さんの共通点でもありますよね。